「ザ・マペッツ」

「超面白い!」っていう噂を聞くか聞かないかのタイミングで、一気に上映館数が減ってしまった不遇の作品「ザ・マペッツ」の感想を書きますよ。「ジム・ヘンソン」ワークスの中では「ラビリンス 魔王の迷宮」とか「フラグルロック」は観てたんですが、「セサミストリート」とか、この映画のオリジナルである「ザ・マペットショー」は観てないんですよ。今やってたら毎週観てたかも知れませんねえ。ちなみに「ザ・マペットショー」って日本ではいつ頃放送してたのか?と調べてみたら、1981年の4月〜6月の1クールで日曜の18時半からだったそうな。あー、そりゃあ観てないわあ。国民的アニメの真裏だもの...。


【あらすじ】※シネマトゥデイより引用

人間のゲイリー(ジェイソン・シーゲル)と友人であるマペットのウォルターは、マペット・ショーの大ファン。ある日、ゲイリーと結婚が決まっているメアリー(エイミー・アダムス)たちのロサンゼルス旅行に同行させてもらったウォルターは、あこがれのマペット・スタジオに行くことに。しかし興奮もつかの間、マペット・ショーの殿堂はすっかり寂れており、かつての面影はなかった。さらに石油王による恐ろしい陰謀が発覚し、ウォルターたちは何とかしようと、現在は引退した“ザ・マペッツ”の人気者でカエルのカーミットを探そうとする。

【予告編】


以下、感想です。



すげえ面白い!狂ってる!!!



オープニング10分からもう良いんですよ。「言っとくけどこの映画ってマジこーゆー世界だから!」って宣言された感じです。一気にマペッツの世界に惹き込まれます。物語の前半を引っ張るウォルター君のキャラが観客に有無を言わせぬほど愛らしいのです。畳み掛けるように繰り出すギャグの数々は、誠実と言うか美学と言うか、まあ、なんだ、とにかくバカバカしいです。キャラクターたちも観客同様、この映画を楽しんじゃってる様子がヒシヒシと感じられて妙なグルーヴ感がありますよ。


ストーリーはごく単純で、他の皆さんもご指摘のように、まんま「まむしの兄弟シリーズ」ブルース・ブラザース」でしたね。他にもなんか最近「仲間の為に立ち上がる」っていうような映画を観た気がするんですけどなんだったか忘れてしまいました。「仲間の為に立ち上がる」というテーマは今年の一つの傾向かもしれませんね。テンポも非常に良く(というかそのテンポの良さも一つの「ギャグ」として昇華している辺りが素晴らしいんですが)、観ている時間はずっと楽しいというど真ん中の娯楽映画でした。恐らく「わかる人にはわかる」というファン向けのギャグも数多く散りばめられており、これはもう門外漢として悔しい限り。とはいえ、よくわかってなくてもわかるギャグも同じくらいの分量が入っているので問題ありません。つか、ウォルター君の存在そのものがすでに大きなギャグなので充分ですよ!


主人公(というか話を進めるキャラクター)が途中からウォルター君からかえるのカーミットに変わってしまいますが、それもまた止むなし!という感じです。やはりカーミットは紛うこと無き大スターですよ。彼のワンショットだけで大スクリーンの画が持つというくらい。なにより彼の泣きの背中は圧倒的な説得力を持っています。そして更に強力な個性を持った「女優」ミス・ピギーとのやりとりは、実在の俳優がやりとりする凡百のラブコメディをも凌いでいるかもしれません。軽妙洒脱でありながらスラップスティック。この「ベストカップル」がかつて居たという事を知らなかったのは、ただただ自分の不勉強さを恥じるばかりです。


「あのシーンのあのギャグ良かった!」とか細かく書いちゃうと、それ自体ネタバレになってしまうので止めときますが(ホントは書きたいんですが!)、この映画が心地良いのは「圧倒的バカバカしさの先にある健全な世界」を楽しむ事ができるからです。誰かを貶めて笑うみたいな不快感が無い。※ジャック・ブラックにあの服装を強制したのは、ある意味でコレにあたるかもしれませんがね!
殺伐とした世の中で、彼らのやっている事がそのまま「世の中をちょっとだけ良くする」事になるヒントになるかもしれない。そんな事を感じずにはおれません。
また、「オリジナルに対する愛」を、観ているボクにも感じたから良かったのかもしれません。去年「電人ザボーガー」を観終わった時にも感じたような気持ち。とにかくマペッツが好きなんだよ!っていう気持ちを持った人たちがちゃんと作ったんだなあという気迫が感じられました。そういうのは観ていてもわかるし、たとえこっちに思い入れが無くても気持ちイイもんですよ。
そして大団円のラスト、俯瞰のモブシーンは、心の底から「良い映画を観た!」と存分に満足させてくれるのですよマナマナ。


惜しむらくは、ホントなんでこんな短い期間で終わっちゃったんだろうなあ〜って事ですよ。もはや映画の出来に惜しいところは無いです。配給会社がこの映画の売り方に完全に手を焼いた感が残念でなりません。純粋な「子供向け」でもないし、ましてや大人向けにも見えないし、どうしたもんかなあ...と困っちゃたんじゃないでしょうかねえ。とはいえ、やはり「日本語吹替」版はどっかで公開した方が良かったんじゃないでしょうかねえ。ボクが観た時に隣に家族連れが観に来ていて、小さな子供が字幕のひらがな部分だけ音読してたのを聞いてなんか可哀想だなあ...と思ってしまいました。まあ、上映後、その家族連れの座ってた席の下は一面ポップコーンに溢れてましたので「あのガキ...!」とも思ったんですけどね。


そろそろBlu-RayやDVDも出るでしょうから、ぜひ観て頂きたい作品です。
もちろんお子さんにも。大丈夫、メタフィクションのギャグはお子さんも好きなはずですよ!



【おまけ】
この曲のイントロが流れて「マジかよ!」と思ったんだけど、実に上手くやってましたよ!
OfficialのPVが貼れなかったんでこちらで。


ザ・マペットショーに「スターウォーズ」ご一行様がゲストに登場した回。
マペットたちにC3-POとかR2-D2がからむとか、もうマジカオス!



ジム・ヘンソンと言えばボクはやっぱりコレなんですよ。コレは毎週観てた。




※本編から漏れた感想

  • 日本語吹替やったら良いのに...と思いながら、カーミットのオリジナル声優はルパン三世山田康雄さんだったそうで、それはそれでオールドファンにはどうしようもない無念な話だなあ...と。

「サニー 永遠の仲間たち」

巷でえらい話題になっている韓国映画「サニー 永遠の仲間たち」。ご多分に漏れずボクも先日観てきましたよ。久々に渋谷のBunkamuraに行きましたけど相変わらずハイソな感じですねえ。客層も心無しかご婦人が多かったっす。まあ予告編でフレデリック・ワイズマン監督のストリップショーを舞台にしたドキュメンタリー「クレイジーホース・イン・パリ」が流れましたけど。ケツがブリンブリンでしたけど。


【あらすじ】※シネマトゥデイより引用

ナミ(ユ・ホジョン)は夫と高校生の娘に恵まれ、主婦として平凡だが幸福な毎日を送っていた。そんなある日、彼女は母の入院先の病院で高校時代の親友チュナ(チン・ヒギョン)と思わぬ再会を果たす。25年ぶりに再会した友人はガンに侵され、余命2か月と宣告されていた。チュナの最後の願いはかつての仲間たちと会うことだった。

【予告編】


さあて、感想を...と思ったら、感想を書いたメモを紛失してしまうというアクシデントが。
いったい何を書こうとしてたやら、今となっては思い出せません。面白かったのは覚えてんですよ!
という事で、今回は覚えてる範囲で書くのでいつもよりもサッパリとしていますがご了承頂きたく存じます。
というか、いつもいつもクソ長い方が問題だ。




で、「サニー」の感想なんですが、非常に可愛らしい映画でしたねえ。ムチャクチャ楽しみました。オープニングが醸し出す優雅な雰囲気が心地良くて、タイトルが出るタイミングなんかもばっちりで「あ、これはもう大丈夫だな!」という安心感がありました。


この物語の要である現代と80年代を繋ぐシーンの描き方も非常に見事でビックリしましたよ。特に一番最初のユナの登校シーン。あまりにスムースに時代が移行したのでワンカットかと思ったんですが後日観直してみたらちゃんとカット割ってましたね。初見では気付かないほど上手いです。


俳優の方に話を変えると、主要キャラが全員二人一役というかなり難しいハードルなんですが、まさにキャスティングの妙と良いましょうか、現代と80年代それぞれがちゃんと同一人物に見えました。どの方も素晴らしい演技をされてましたが、一番印象的だったのは主人公ユナの高校生時代を演じたシム・ウンギョンさん。爆笑!カワイイ顔してるんですけどね。三白眼でガチガチと震えだすカットで想いっきり笑ってしまいましたよ。岡田あーみん先生の書くマンガのキャラみたいでした。


魅力的なキャラクターがスクリーン内をところ狭しと活躍してくれるので、観ていて清々しいです。1980年代の韓国と言えば、国内がガチャガチャしてた時期だし、現代に目を映しても全員が全員幸せになっている訳では無い。でもやっぱり「明るい」んですよね。エネルギーに満ち溢れているというか。やっぱり持つべきものは友!という直球ど真ん中のテーマが不快にならないんですよ。そのあたりのバランスは良いと思います。やっぱ整形をあけすけにネタにできる関係性ってねえ、良い仲間ですよ。


ただ、悪い部分が全く無かったという訳でもなくて、気になる点もありましたよ。
ダンスのシーンとかカッコ良いのに喧嘩とか乱闘のアクションになると急にモタッ...モタモタッ...と、ブレーキがかかるんですよ。急に音痴になる感じ。アレは謎。映画館前の大乱闘シーンで一番強くそう思いました。
あと、キャラが魅力的ってのは主要メンバーだけという事ではないという事。後半の敵役となるシンナー中毒の女の子。あの子なんか可哀想じゃない?「サニー」のメンバーと同じくらい愛着を持ってしまいましたよ。だからあの子だけ報われないのはどうにも引っ掛かるのです。ストーリー上成す術が無いんですけどね。
それに、オチなんで具体的な事は書きませんが、ラスト、サニーのメンバーに「お土産」多過ぎじゃね?相撲をマス席で観戦した時くらい「お土産」の量が多いんですよ。たぶん映画観た人には伝わるだろうと思って書いてますけどね。シンナー中毒のあの子の事を気になってるのでこの幸せバランスの悪さが特に気になりました。


とはいえ、最初から最後まで楽しかったですし、大満足の映画です。なにより洋楽をここまで完璧に使いこなした東洋の映画も珍しいんじゃないでしょうか。歌詞までちゃんと咀嚼して再構築。ドラマ「glee」にも通じるものも多いかと思います。オススメ。




【おまけ】
「サニー」という曲は、ボクはこっちの方から知りました。

か、かっこええ!!


あと「サニー」と言えばこれでしょう!ボビー・ヘブ超えのカッコ良さ。

随分と気持ち良さそうな風呂に入ってるような。


で、ここまでやっといて映画に使われた「Boney M」版を貼らないっていう。


※本文から漏れた感想

  • そういやコレって「ラジオ映画」でもあったねえ。ラジオリスナーならグッと来るシーン有り。

「加地等がいた-僕の歌を聴いとくれ-」

加地等(かぢ ひとし)さんの事を知ったのは、たしかミュージシャン前野健太さんのブログからだったと思います。【「ロマンスカー」という曲を加地さんが褒めてくれて嬉しかった】云々との一文を読んだのがきっかけです。あの「前野健太」に影響を与えたミュージシャンってどんな人なんだろう?しかもつい最近に亡くなったのか...。40で亡くなるなんて随分早いな。などと思っていたところ、丁度そのブログを読んだ直後あたりにこの「加地等がいた」というドキュメンタリー映画が新宿のK'sシネマで公開されると聴き、非常にいいタイミングだったので観てきました。今回はこの映画の感想です。


【あらすじ】※シネマトゥデイより引用

37歳のときに大阪から上京し、3畳一間の部屋に暮らしながらフォークシンガーとして活動していた加地等。織田作之助太宰治をはじめとする作家の影響を受けた歌詞と温かなサウンドで異彩を放つが、クリスマスイブの夜に泥酔して右手に大やけどを負ってしまう。ギターが弾けなくなったのを悲観してアルコールにおぼれるようになり、精神の均衡までも危うくなっていく加地。その一方で彼の「僕はダメ人間」といった楽曲が改めて注目されて復活コンサートが企画されるも、その直前に失踪(しっそう)してしまう。

【予告編】


以下、感想。




前述の予告編も未見のまま観たんですが、これがまたたいそうステキな作品だったのですよ。わざわざ中野ブロードウェイの本屋「タコシェ」まで行って加地等さんのアルバムを購入するくらいすっかりハマってしまいました。冒頭、加地さんの生い立ちを説明するVTR(彼のライブで実際に使用された映像の模様)が流れます。その時にやれフェラチオしておくれ」だの「とりあえずヤリマン」だの「チーズ・キムチ・チンポ」だの、歌のタイトルが出るんですよ。ナレーションの女の子も恥ずかしがってる感じで。「え!?この人大丈夫かよ!?」なんて思ってたんですがね。
その後、加地さんが「僕はバカです」という曲をギター弾き語りで歌うのですが、反射的にボロっと涙が溢れてしまったんですよ。あまりにも不意に。一曲歌い終わった時、思わず本当に拍手をしてしまいそうになりました。歌の美しさに衝撃を受けました。


ビックリするほどシンプルで、哀しくなるほど心に染みる。それでいてしなやかな強度を併せ持つ、不思議な曲の数々。鼻っ柱を殴られてツンとするような感覚に陥りました。加地等さんの曲はまるで21世紀に作られたようなシロモノではないくらい、まるで昭和時代の4畳半フォークのようなエレジーに聴こえるんですよ。音楽業界のメインストリームが主に表現する「愛」や「努力の美しさ」や「両親や恋人たちへの感謝」みたいな、わかりやすいスローガンを掲げる現在に於いて、「酒」や「労働」、「男と女の間を流れるマヌケな恋愛感情」みたいな歌を歌う加地等さんは貴重な存在でした。そりゃメインストリームになる要素があまり無いですわな。でも間違いなく「今」を象徴している作品だと思いました。みんなが意識していない、もしくは「あえて目を伏せている」だけであって、「今」確実に存在する世界
哀愁と諦観、そして極めて少量、それでいて非常に奥ゆかしいレベルでの希望と優しさを併せて。


もう一つ。加地等さんの曲は「都会」がものスゴく似合うと思いました。同じ「諦観」でも、去年の傑作「サウダーヂ」が持つ「地方の諦観」とはまた違った雰囲気。「都会」が持つプラスチックな世界観に映えるんですよ。加地さんの生い立ちが「大阪」→「東京」という「都会」でのみ生活されていたからなんでしょうけどね。冒頭の曲「僕はバカです」に、こんな歌詞が。

雑踏に戻れば 蟻の安堵感
コレで良いんだと 生ゴミを背負う
生ゴミの中には リアルな絵巻物
僕がどこにいるのかわからない


今 先生たちは どうしてるんだろう
きっと僕より 若いんだろうな


街は今夜も 受け入れ態勢
こんな僕でも すんなりさ
だけど後で 空しさっていう
モノクロのお土産を持たされる


今 看護婦たちは どうしてるんだろう
きっと ボクより 笑ってるんだろうな


夢は 夢で 飛ばされた風船
現実は 現実で 苦虫の薄ら笑い


憧れの「都会」なんてこんなもんなんですよね。誰が居ても良いし、誰が居なくなっても構わない。
21世紀に於ける「都会」をこの目線で曲に描けるミュージシャンがいた(過去形)という事を、今の今まで知らなかった事が痛恨でなりません。


映画そのものに対して書くと、これもまた非常に良いんですよ。加地等さんを追ったドキュメンタリーではあるんですが、印象的には加地等さんと、加地さんの曲に惚れ込んだレーベルの主宰である岡敬士さんの2人の友情を綴ったお話です。一回しか観てないので無資料の妄想なのですが、加地さんと岡さんってスクリーン上で1シーンしか一緒に映って無いんですよ。お互いの想いがあって、それぞれが儚くもすれ違うというシーンがあり、その見事な構成には落涙するばかりでした。


「東京」という街が彼を傷つけていたのか、「音楽」というモノが彼を振り回し続けていたのか、今となっては判然としませんが、心の隙間を酒で埋めるという行為の結果、加地等さんは齢40にして「ブルース・ブラザース2000」でいうところの「ココよりもっと良いところ」に行ってしまいました。この映画が描いた彼の人生のラスト2年半は、パーソナリティと作品の境界線がより曖昧になり、さらにイノセントな感じが増したようでした。ボクはこの映画を前野健太さんのトークショー付きで観たんですが、前野さんの愛憎入り交じった「ずるいよ」という感情が印象的でした。


良い曲をいっぱい作って若くして亡くなる。真の無頼派
不謹慎な言い方になってしまいますが、表現者としては「一つの完成型」だと思いますよ。
でもやっぱりこういうのは哀しいですよ。やっぱりかっこつけ過ぎですよ。


この映画が無ければ「加地等」を知るのが遅れていたでしょう。下手したら一生知らなかったかもしれません。そんなもったいない事にならなくて本当に良かった。「加地等がいた」。その紛れもない事実を知る素晴らしい映画体験でした。




【おまけ】
加地等さんの曲の中ではこれが好き。
短編小説みたい。
ヤリマンだと噂される女の子の家に夜ご飯を食べに行く物語。


※本文から漏れた感想

  • 感覚的に敬称を略す事ができなかったな。
  • 「加地等」という人物を、曲を知ってから実際に会った人と、会ってから後で曲を知った人だと印象が全然違うみたい。

「この空の花 長岡花火物語」

今回は大林宣彦監督の「この空の花」の感想です。正直言って大林宣彦監督作品、苦手です。なにしろ出会いが悪かった。一番最初の大林宣彦体験は、7歳の時に観た「HOUSE」。トラウマのあまり今でも怖くて観るのをためらうという始末。
※具体的には去年25年ぶりに観直した時に書いた「HOUSE」の感想をどうぞ。
しかしながら生涯ベスト級に愛してやまない作品に異人たちとの夏があるんですよ。皆さんご存知の通り、これも大林宣彦監督作品。大林宣彦監督作品は恥ずかしながらこの2本しか観ていないのです。
ボクの「苦手すぎる!」と「好きすぎる!」映画の両極端を担う監督。
よくよく考えたら、同時代に生きていながらそんな監督の作品の新作を劇場で観ないというのは何かもったいないという気持ちになり、意を決して有楽町のスバル座に行って観て参りました。スバル座も初めての劇場。雰囲気からして行き慣れているそこら辺の映画館とは格調が違う雰囲気。流石「ロードショー」のパイオニア。始まる前からもう既に「大林宣彦監督作品」が始まっているっ...!!


【あらすじ】※シネマトゥデイより引用

新潟県長岡市に暮らす昔の恋人だった教師の片山(高嶋政宏)から、生徒が創作した「まだ戦争には間に合う」という名の舞台と花火を見てほしいと手紙で伝えられた地方紙記者の玲子(松雪泰子)。その機会を生かし、彼女は東日本大震災の被災者を迅速に受け入れた同地の様子も見て回ることに。市内を旅する中で不思議な出来事と人々に次から次へと遭遇する玲子は、それらすべてが空襲や地震から立ち直ってきた長岡の歴史と密接にかかわってくることに気付く。やがて彼女の旅は、過去、現在、未来といった時間を超越したものへと変わっていく。

【予告編】


以下、感想。






最高!


予想を遥かに超えたとんでもない映画でした!幻想的な世界へ一気に連れて行かれたような気分。1カット1カットの完成度が高くて美しい。過剰なまでのテロップと澱みなく流れ続ける台詞は、さながら爆音でトランスミュージックを聴いているかのよう。台詞と字幕の情報量のあまりの多さに、映画に食らいついて行くのを途中で放棄し、ただただ身をまかせてしまいました。その心地よさ足るや、「トリップムービー」とはダブルミーニングだったのか!と納得せざるをえません。なるほど確かにこれは「遠藤玲子のワンダーランド」。冒頭にそう出ているのもわかります。


カット割りも凄まじいです。速い!速い!速い!手数が多くて所作が見えない達人のカンフーを見ているようです。そんなスピードで展開されながらも一輪車の集団が突然横切ったり、特殊効果を使ったり、不意に観客であるこちら側に話しかけてくるようにカメラ目線を決めたりと、一秒たりとも油断ができません。なおかつ戦時中である「過去」と2011年である「現在」が同軸で展開されていくというぶっとんだ構成が流石です。ウォッチメンのDr.マンハッタンってたぶんこういう感覚なんだなあと思ってしまいました。スーパーヒーローと同じような感覚で映画を作れる人なんてそういませんよ。


それでいて、そんなテンションの高さが途切れる事も無く、徹底的にこの舞台である長岡の歴史を叩き込んでいきます。2時間40分あるんでね、ぶっちゃけ途中お尻が痛くなりましたよ。でも監督は全然許してくれませんもの。こっちが「もうわかりましたから!」つっても首根っこまま「まだまだ!」と話してくれない感じ。劇中劇があるのですが、定石ならリハとゲネプロを抑え気味にして本番でドカン!と見せるじゃないですか。監督はそんな事しませんよ。リハ、ゲネプロ、本番、のエネルギーが全てにおいて全力です。
この全力の表現を「クドい!」と思う人が居るかもしれません。たしかに劇中劇だけでは無く、同じ話を繰り返している場面が多々あります。松雪泰子高嶋政宏がどんなに素晴らしい演技をしていても、結局「スクリーンに一度も映らない大林宣彦が一番スゲえ!」っていう印象で、誰が出ていても「この映画、大林宣彦しか出てないよ!」っていう錯覚をしてしまいましたし。
でもこれは大林監督の並々ならぬ「気迫」と受け止めました。どうしても観客にちゃんと伝えておきたい事がある。と。


この作品、幻想的な世界観に圧倒されてしまいますが、ストーリー上ではフィクションの要素の方が少ないんですよね。長岡の件に関しては基本的に全部本当にあった話。実際の話も撮り方次第でファンタジーに昇華できるという点で既にとんでもない傑作なんですけどね。不勉強の誹りを受けてもしょうがないのですが、ボクは長岡の事を全く知らなかったんですよ。しかしながらこの映画で随分と詳しく知ることができました。ただ長岡の歴史を知った訳ではありません。監督は長岡を舞台にしながら、天災や人災を経て「人間に一番必要なものは何か。」と言う事を全身全霊をかけて届けようとしているのです。

人間に一番必要なもの。ネタバレになるので書きませんが、たしかに「コレ」は3.11という「天災」を経験し、原発事故という「人災」の問題のど真ん中を生きる我々にとって重要なものだと痛感させられました。

特に「人災」というものに関しては、大林監督ははっきりと戦う姿勢を見せていたように思えます。「戦争」という「人災」。劇中劇の戦争表現には恐ろしいものを感じました。「死」を思う。


今回の感想を書くにあたり、トラウマ映画の「HOUSE」を改めて観直したんですよ。ラストシーンにこんなナレーションが。一貫してるんですよね。


「たとえ肉体が滅んでも 人はいつまでも誰かの心の中に その人への想いとともに 生き続けている だから 愛の物語は いつまでも語り続けなければならない」


「死」を持って「生」を考える。


これはボクの大好きな「異人たちとの夏」も同じ。死んだ両親から「生きる事」を学ぶ。


そして今作「この空の花」。天災や人災で失った多くの命から「残された我々が成すべき事」を見つける。


映画監督としてデビューしてから現在まで一貫しているんですよ。「変化していない」という事ではありません。一貫しつつ、むしろ「進化」しているような。「HOUSE」の時よりも「この空の花」を作った現在の方が若返っている感じがするんですよ。


これは「映画」で「戦争」を無くそうと本気で思っている「覚悟」が詰まった作品。


そんな並々ならぬ気迫を感じざるを得ません。
そして齢70を超えてなお、これほどまでに若々しい作品を作る大林監督には、愛と畏れとたくさんの尊敬を込めて「日本映画の怪人」、そうお呼びしたいと思うのでありました。




【おまけ】

超怖い。

超号泣。

「アメイジング・スパイダーマン」

「勢いにまかせて観る」みたいな映画ってありません?「時間が空いた!」とか「今ちょうどこの映画が観たい気分!」みたいな。今回はそんな感じで勢いにまかせて観た映画、「アメイジングスパイダーマン」の感想です。


【あらすじ】※シネマトゥデイより引用

高校生のピーター・パーカー(アンドリュー・ガーフィールド)は両親が失踪した8歳のときから伯父夫婦のもとで暮らしていた。ある日、ピーターは父リチャード(キャンベル・スコット)の共同研究者だったコナーズ博士(リス・エヴァンス)のもとを訪れ、研究室で特殊なクモにかまれてしまう。その直後、ピーターの体には異変が起き……。

【予告編】


以下、感想デス。





体調が悪かったのか、観に行った劇場が心地よかったのか、それともお話に興味が湧かなかったのか。ついウトウトとしてしまいまして。これから書くのはウトウトと観た上での感想なのでこの映画が大好きって方がいたら申し訳ありません。


「面白い!」と思った部分がほぼ無かったんですよねえ。


主人公の男の子が前半ウダウダとしていたので、こっちもうっかりウトウトして「ハッ」と気付いたら、まーだウダウダとしゃべってんですよ。スパイダーマンになるまでものスゴい時間がかかる。実際にはものスゴい短かったかもしれないけど体感時間が長かった...。後半ようやく例の格好になるんだけど、前半のウダウダを引きずっちゃってて爽快感が無いんです。しゃべってるシーンは長い丁寧なのに、肝心のスパイダーマンすげえ!」って思えるシーンが極端に短い。今作のスパイダーマンは特にマスクをよく脱ぎます。あのマスクを取ったり脱いだり取ったり脱いだり(二度手間)。あいつがマスクを脱ぐたんびにアクションの流れが止まるっていう。もう、マスクに構造上の欠陥があるとしか思えない。アクションが少ないのになんで我々に3Dメガネをかけさせたんだ?


普通の高校生(とはいえ、イケメン&超頭良い&スケボー等、運動神経悪く無いんだけど。)が、図らずもヒーローになっていく...という過程が今作の一番のキモなんでしょうけど、それにしても対峙する悪役と噛み合っていたかどうか...。なんか主人公の気持ちの方向と悪役の行動の方向が向き合ってなかったように感じました。お互いそれぞれ別の事で忙しい...っていう。主人公は恋愛に忙しいし、正義感というよりも私怨で行動するし。彼がより「困っている人を助けよう」という気になるのは次回作以降なんでしょうなあ。


今回の脚本はラブストーリー要素が強くて、しかも撮ってるのが「(500)日のサマー」の監督なんだから、これは前半ダメでも後半から面白くなっていくかも!と思ったのに別段そうでもなかったのが残念です。主人公とヒロインの関係は序盤から上手いってる話なので特に「ラブストーリー」としての盛り上がりも無い。だから「スパイダーマンの格好で彼女に部屋に忍び込んだらお父さんが!」みたいな非常にミニマムな展開でしか見せ場が無い。しかもそっちの方がクライマックスの悪役との戦いよりもスリリングに描いているっていう。監督なんちゅうバランス感覚っすか!どうせ童貞高校生なんだし、戦う時もペチャクチャとしゃべるようなシニカルなキャラクターなんだからもっと「飄々としたピーター・パーカー」とか、明るい方向にリブートした方が監督の作風に合っていたかもしれません。だって「(500)日のサマー」のあのダンスシーンみたいな「バカバカしい!&その気持ちわかるー!」というシーンが撮れる監督じゃないですか!なんかもったいないよ!


ボクは前シリーズの「スパイダーマン」にも別段思い入れが無いのですが、とは言えやはりサム・ライミ版の第一作で「うひょー!!」と快哉を叫んだ記憶が消せる訳も無く、心のどこかでやはり前シリーズと今作を比べちゃってたのかもしれません。つか、前シリーズの「3」からたった5年しか経ってないし。今回のストーリーを観ながら「あれ、コイツ、たまたまスパイダーマンの格好を手に入れた『にせもの』なんじゃね?」と思い始めてしまいました。水戸黄門シリーズで定番の「にせ黄門様」話みたいな。
今作のクライマックスでピンチになった主人公の前にトビー・マクガイアがスパイダーマンの格好で現れたら、それこそ「うひょー!!」となりましたけどね。※「ルパン三世」第2シリーズ最終回のイメージです。


今作の「リブート」という手法はサム・ライミが降りちゃったから、という理由があるからしょうがないんだけど、やっぱりなんか割り切れないなあ...と言うのが素直な感想。「あの設定、やっぱ無しね!」ってのがMERVELのお家芸と言われましても...、ボクそこまで懐広くない。
「アイアンマン」から始まった「アヴェンジャーズ」みたいなオールスター大集合映画の次回作への布石、というか打算。
ダークナイト」以降のヒーロー映画が捕われた呪縛というか、過去作を大人向けシリアスに作り直せばヒットするだろうみたいな考え。
スパイダーマン」クラスのスーパーヒーローは、結果がどうであれファンは一定層来るだろうっていう保険。
なんか日本のメジャー会社がテレビ局と組んで作る「ドラマの映画版」と「作品が作られる構造」が似てますね。
日本もアメリカも台所事情は変わらないんだろうなあ、とぼんやりと思ってしまいましたよ。エンディング曲もむしろお似合いです。


色々書きましたが別に腹が立つ映画って事でも無いですし、まあ新しいスパイダーマンのデビュー戦だからこうやってギャーギャーとケチをつける方が野暮だしバカなんだと思いますよ。だってまた「あの設定、ヤッパ無しな!」ってリブートするかもしれないじゃない!




【おまけ】
おまけ動画、もうこれしか浮かばなかったス。

今作でサプライズで「レオパルドン」出たら「うひょー!!」どころか失禁してたわ。


あと、出典がわからないんだけど、こういう事するのって恐らくMTVムービーアワードじゃねえかと。

「僕は人を殺しました」

最近、twitterの極めて一部で猛威を振るっている、映画「僕は人を殺しました」宣伝アカウント(フォローしてはアカウントを消しの繰り返し。さらには「僕殺」「殺殺(コロコロ)」「殺殺2」「殺殺3」「殺殺4」「殺殺5」など更なる別アカウントを増やし、全盛期のスーパーストロングマシンを思わせる増殖っぷり)ですが、いったいどれくらいの方々がこの映画をご覧になった事でしょうか。ボクは観ちゃったんですよ。今回は謎の映画「僕は人を殺しました」の感想です。


【あらすじ】※シネマトゥデイより引用

2人組の男が一般の男性をとあるマンションに拉致。その後、監禁状態に置き、殺してしまう。その過程を、セリフを極力抑え、演者の顔もほとんど見せずに、ただその場で起こっている出来事を映し出していく。

あ、そんな話だったんだ。

【予告編】


はい、以下感想です。






照明無し、説明無し、台詞無し、音楽無しの1時間20分。
あるのは暗闇と微かな光。
音も全くの自然音を使ってるからとにかく静かでね。セミとかコオロギの鳴き声とか聴こえちゃってね。どんくらい静かか?って言うと、上映してる下北沢トリウッドの空調のオン/オフがわかるレベル。ぶっちゃけ何が映ってるかよくわかりません。場所はたぶん土手。動いているのは登場人物が持っている懐中電灯の光。画面の奥の方で、もぞもぞもぞもぞと何かが蠢いている。何かを殴ったような鈍い音とうめき声。(恐らく)1シーンにつき同ポジでワンカット。

終始こんな感じ。

こ、これを観ているのは辛い...!!


ただねえ、端的に言えば非常に面白かったのですよ。そこが厄介なところで。


この映画全体が既に「殺人者の心」を表現した形になってんですよね。
ニュースとかでよく殺人事件など観ますけど、あー言った話で「凶行を起こした犯人の心の闇」なんて特集汲まれて、心理学者がそれなりのコメント言ってるじゃないですか。なんかこういう場面で心理学者の方が言うには、明るい部分がまずあって、その中に小さく「黒いモノ」とか「闇」があるみたいな表現をされてるんですよね。いや、そうじゃねえんですよって話。
ボクがこういうので思うのは、単に「心の闇」......というか、その闇の中にポッと豆電球みたいな光があって、そこに当たってるモノが本当の姿のような気がしてるんですよ。闇の中で小さな光に当たってるモノは何でも良いんですが、例えば「ロリコン」とか「盗撮」とか、「万引き」とか「露出狂」とか。とにかく一人でシコシコやるような誰にも言えない事。で、際たるモノが「殺人」。ボクが思う犯罪心理ってやつとこの映画が全編を通してやっている「暗闇の中に小さな光がポッとあって、それがもぞもぞ蠢いてる感じ」ってのがぴったしと合ってしまったので、「あ、わかるこの感じ!」となってしまったのです。


いちおう犯人と男が出てくるんですが、その二人の関係性もよくわからんのです。たぶん行きずりです。この辺りも良いんですよ。
人を殺すのに理由なんていらないんですよね。で、こういうのが被害者にとって一番怖いんです。殺された理由が無いってやつ。なにか良からぬ事が起こったら「どうして!?」ってのが一番欲しいじゃないですか。納得がいかないのが一番ヤな話ですよね。悲嘆のどん底に突き落とされます。殺された方も残された方も。この不快感も併せて観客に疑似体験させてくれてるんですよ。まったくいやらしい映画ですね!(褒めのテンションで)


不快感を疑似体験、と言えば他にもありますよ。再三書いている通り、全編に渡って画面が暗いので観てるこっちには結構辛いものがあります。テンションが一定って言うんですかね。盛り上がりとか一切無いです。誰が誰を殺そうとしてるかわからないし、この逃げ場の無い感じが「拷問」を疑似体験させられてる気持ちになってきます。
この辺りでハッ!としてしまったんですが、もうなんかよくわからねえから、どっちでも良いからサッサと殺してくれねえかなあ...と、この物語に対して思ってしまったんですよ。これは随分恐ろしい事ですよ。登場人物の誰にも思い入れができないように作られているとはいえ、あと「拷問」の疑似体験が辛かったとはいえ、自分にも確実にある「残虐性」に図らずも気付かされてしまった一瞬でした。


客に恨みでもあるんだかワカリマセンが、もう徹底的に何が映ってるんだかわからないように撮ってるんですよ。夜は前述の通り、真っ暗に小さな光。昼のシーンもあるんですがずっとピンぼけっていう...。たぶんだけど街を歩いてても誰にも気付かれてないんですよね。このあたりも非常に怖いんですよ。霊的な話じゃなくてね。そこにいるにもかかわらず、誰にも相手にされない。深夜に台車でゴロゴロと音を立てて(なにかを)運んでいたら、誰かしらに声をかけられるだろうにそれが一切無い。この映画に出てくる登場人物たちの気付かれなさは異常。
「誰にも気付かれない」という事は恐怖以外のナニモノでもありません。「孤独」や「疎外感」は人間を凶行に走らせるには充分な理由。

もの言わぬ彼らが唯一はっきりと自己主張しているのが、この映画のタイトルだけ。

「僕は人を殺しました」



人間の奥底に眠る「恐怖」や「狂気」、「残虐性」を幾重にも重ねてタイトルで締める。
この構造は非常に上手いと思います。いやホント重ね重ねいやらしい映画ですね!


ボクは結構満足しました。ただ、ご覧の通りマジで「観客に対するサービスゼロ!」な、極めて挑発的な映画ですので、ご覧になる方を止めるなんて野暮な事しませんが、各自、自己責任でおまかせしたいところ。


マジでスゴいと思います。


こういう映画を作った監督とそれを上映している下北沢トリウッドの、それぞれのハートの強さが!



【おまけ】
なんとなくこんな気分で。

あら!意外とこの映画にあってるかも。





※本文から漏れた感想
...っていうか、まあ前回の「隣る人」の感想と比べてこの筆致の軽さよ!スラスラ書けたのはやはり性にあってたんでしょうなあ。

「隣る人」

なにしろドキュメンタリーが好きなもので、この映画も結構早い段階から認識していまして。
観に行ったところ、期待通りどころか、むしろ期待を遥かに超えた作品だったので遅まきながら感想を書きます。

【あらすじ】※シネマトゥデイより引用

保育士のマリコさんは、地方にある児童養護施設でムツミとマリナの親代わりとなって寝食を共にしている。そこではやむを得ない事情から親と同居できない子どもたちが住んでおり、ときどき二人はマリコさんをめぐってケンカをすることもある。そんな折、ずっと離れて暮らしていたムツミの母親が、もう一度子どもと暮らしたいと願って施設を訪れる。

【予告編】



以下、感想です。




この映画の事が新聞に載っていて、母に「この映画ムチャクチャ面白いよ!」となんとなしに話したところ、「へ〜、そうなんだ。そういうところって可哀想な子が行くんだよね。」という返事が返ってきましてね。こう言った母に「悪意」なんてのはさらさら無くて、ただナチュラルに思った事を言ったんだけだと思うんですよ。要はコレくらいが「児童養護施設」に対する世間の認識なんじゃないですかね。両親と離ればなれに暮らす子がいる、と。そこには「両親と離ればなれに暮らすなんて可哀想。」という文脈が深層にある、と。


しかしながら、この「隣る人」にはそういう既存の概念とは全く違った風景がありました。


舞台の「光の子どもの家」は、職員と子どもが一緒に暮らしています。そこにまず驚かされるんですよ。夜明けから朝食の準備。みんなで食事。それぞれの学校へ手を振って送る。一連の流れはまるでスタジオジブリの作品(「コクリコ坂」とか)のようで、開始冒頭から一気に惹き込まれました。


構成は元気なむっちゃん、おっとりとした性格のマリナ、そしてその二人を担当するマリコさんを主軸に進みます。むっちゃんマリナの二人の、仲が良いんだか悪いんだかの関係性がなかなか面白い。基本、二人して始終マリコさんを取り合うっていう。マリコさんの事が大好きすぎるんですよ。好きで好きでたまらない。対するマリコさんもそれに充分に応える。このお互いを思う気持ちが画面からドバドバと溢れてくるようで、なんて幸せな関係なんだ!と、観てるこっちも幸せな気持ちになってきましたよ。


むっちゃんマリナの二人だけしか出ない訳では無くて、他にも2歳にして既にワイルドな顔つきのコウキや、とにかく甘えん坊のマイカちゃんも出てくるんだけど、それぞれのエピソードもそれぞれグッとくるものがあり興味が尽きません。特にこの映画で一番ショッキングなシーンは、マイカちゃんとその担当マキノさんの別れのシーン。紆余曲折がありながらも相思相愛の関係まで作れた二人だけど、施設内の配置換えという事でマキノさんが「光の子どもの家」を出る事になってしまいます。強制的に別れるハメになった二人。別れの当日、離れるのが嫌で「ママーーー!」と絶叫するマイカちゃん。あまりにも哀しすぎる現実。一番大事な人を奪われる瞬間。痛々し過ぎて観てられませんよ。このシーンにはどんなに「光の子どもの家」が良い施設でもやっぱり「施設」であるという現実と、子どもにとってはかけがえの無い場所であるという「理想」が見事に交差した素晴らしいシーンだと思います。そしてそんな絶叫&号泣するマイカちゃんをみつめるむっちゃんの表情がまた良いんですよ。ボクにはボキャブラリーが少ないんでどうにも表現できないのが歯痒いのです。むっちゃんの表情は凡百の台詞より。数多ある音楽よりも雄弁でした。


個人的に一番好きなシーンはむっちゃんとむっちゃんのお母さんの出演している部分です。むっちゃんのお母さんが突然施設を来所。突然の事にビックリしてもじもじするむっちゃんと、そんなむっちゃんのリアクションに困ってしまうお母さん。むっちゃんはドアの鍵をガチャガチャ。むっちゃんのお母さんはタバコを一服。その姿がどうしてもそっくりなんですよ!離れて暮らしていてもやっぱり親子なんですよ!親子が照れと戸惑いで距離感を計りかねてる姿がどうにももどかしいし悩ましい...。親子なんですけどね。上手くいかないもんですね。
そんな親子をバックアップしているマリコさんが食器を洗いながら「子を育てる」という事の辛さと喜びについて語っているシーンがあります。この映画のキモだと思っております。是非この内容はスクリーンで観て頂きたいところ!


「両親と離ればなれに暮らすなんて可哀想。」
いや、ベタな一般論ではそうかもしれないけどさ。各家庭の各事情をそれぞれ考えたら決して当てはまる意見では無いんだよね。
どうしても一緒に入れない親子がいる。
お互いの為に離れて暮らした方が良い親子がいる。
でも哀しい哉、やっぱり「誰も一人では生きていけない」んですよ。
人の気持ちがわかる人間になるには誰かが横にいなければならない。その行為を「助ける」というには大袈裟。「隣る」くらいが良い。「育てる」という言葉もあまりあてはまらないような。日常を丁寧に積み重ねる。「光の子どもの家」の活動からそんな事を感じました。そしてこの映画。児童養護施設を扱った作品でありながら、観終わって残るのは「何気ない日常の美しさ」「普段使っている言葉の尊さ」でありました。


ここでちょっと俯瞰して考えてみます。


この「隣る人」という映画はゼロ年代から震災を経た今、この2012年におけるドキュメンタリーの極点だと思っているんですよ。

血の繋がらない大人と子どもの新しい関係性。この「光の子どもの家」の理事長である菅原哲男さんはそれを「血より濃い水の関係」とおっしゃっていましたが、この考えは昔からある、しかしながらなかなか実践しえなかった新しい秩序だと思います。
もともと存在していたのにも関わらず、社会はこの自然な存在をクローズアップしてこなかった。メディアはこの件を「問題」として取り扱うけど、この映画はそれすらも放棄しているようです。音楽やテロップ、ナレーションを一切排除した作り。その分、そこにある暖かさや匂いを届けようとする試み。

そっと寄り添う。

映画自体がこの「光の子どもの家」という施設の方針を体現しているのです。


また、この10年くらい主流となっていた「セルフドキュメンタリー」に対するカウンターとしても非常に優れた作品なんですよね。
元々ドキュメンタリーの主流であった「暮らしながら撮る」みたいな、先に被写体との関係性を構築しておいてから自然な姿を撮るスタイル(小川紳介監督とか佐藤真監督とか)があって、そのカウンターとして「一回性」のスリリングさを狙ったスタイル(原一男監督とか松江哲明監督とか)がある。特にここ最近は被写体との関係性を構築する手間を省く一番良い方法として、監督自身が被写体となるスタイルのドキュメンタリー映画が数多く作られてきました(「一回性」のスリリングさの極北のドキュメンタリーが「ハメ撮りのAV」だと思ってんですけどね)。
この「隣る人」は原点回帰というか大きな揺り返しというか、「人間関係を構築した上で作品を作る」という、非常に丁寧な、そして最も手間のかかる手法を改めて用いています。そうしてできあがったこの作品は、やはり手間のかかっている分、画の力が強いのです。


別に【「一回性」のスリリングさ】を求めた作品が悪いと言っている訳ではありません。ボクはむしろそっちの方が好きでドキュメンタリーにはまりましたから。実はこの「隣る人」にもそんなスリリングなシーンがあるんですよ。この点に置いてもこの作品が素晴らしいなあと思う点でありまして。上映後にロビーでこの映画のプロデューサー兼構成、そして撮影を担当された大澤氏からお伺いした話によれば、むっちゃんがカメラに向かって悪態をつく「ブランコ〜すべり台のシーン」と「夕方のアナウンス」のシーンは刀川監督ではなく、大澤氏が撮っているとのこと。なるほど確かに大澤Pは長い事取材をされていた監督とはむっちゃんとの関係性が薄い。知らないお兄さんが撮ってるからむっちゃんもあんなにカメラに悪態をついていたのか!
しかしこの「悪態をつくむっちゃん」というシーンがあるからむっちゃんの事を愛しく思えるのであって、長い取材で関係性を構築した上で撮影されている作品でありながら、同時に【「一回性」のスリリングさ】も併せて効果的かつ見事に活用された稀な作品であると感心してしまいました。


監督(兼、被写体)のプライベートで大事な部分を血ヘドが出るような思いで作り出した去年の傑作監督失格や、【「一回性」のスリリングさ】という事に極限までこだわった傑作「ライブテープ」とはまた違ったアプローチ、それでいてこれもまた傑作の「隣る人」はこのテン年代のドキュメンタリーを方向性を照らす灯台のような作品になるだろうと思います。


今後DVDになる事はないそうですがこれから全国に展開されるそうで(2012年6月現在)、後は自主上映会もお願いすればできるとの事なので、この作品は親子の関係に悩んでいる方とかドキュメンタリーが好きな方とか、いろんな方に是非とも観て頂きたい。そんな作品です。





【おまけ】
この「隣る人」観てこの映画のラストカットを思い出しました。
知ってる人はピンとくるはず!
誰も一人では生きられない。





※本編から漏れた感想

  • この作品は円環構造になってるので最後の最後まで席を離れない事をお薦めします。構成が上手いんだわ。
  • むっちゃんとお母さんのあの距離感はフィクションでは絶対作れないなあと思った。
  • 監督が「面白い!」と思った部分とボクが「面白い!」と感じた部分がより重なりました。
  • 映画内に出てくる「キーワード」が先行して、画が後からどんどん繋がっていくという構成が見事。
  • 夜、子どもたちが寝るシーンは映画「アヒルの子」の小野さやか監督が撮影していたとの事。たしかに女性ならではの視線。納得!