「Peace」(と「なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか」)

今回は、今でもどこかで公開しているであろう息の長い作品「Peace」の感想です。今回はドキュメンタリーでも、僕の得意とするスタイルとはまた別のスタイルなのでいったいどうなるやら。

【解説】※公式HPより引用

「平和って何だろう?どうしたらみんなが共存できるの?」 韓国の映画祭から、この「人類永遠の問い」を向けられた想田和弘監督は、岡山で暮らす人々や猫たちの何気ない日常にカメラを向けた。平和と共存へのヒントは、どこか遠くではなく、自分たちの毎日の生活、足元にこそ潜んでいるのではないか。そう、思ったからだ。想田の妻の実家・柏木家に住みついた野良猫グループと、突如現れた「泥棒猫」との確執。91歳で一人暮らしをする橋本至郎と、彼をボランティア同然でケアする柏木夫妻。その夫妻自身にも迫る老い。そして、己の死を見つめる橋本の脳裏に突然蘇った、兵隊としての記憶――。台本無しで回される想田のカメラは、彼らの人生や“ニャン生”に訪れる大切な瞬間に奇跡的に立ち会う。観る者は、戦争と平和、生と死、拒絶と和解、ユーモアと切なさが同居する「生の時間」を体感し、「共に生きる」ことの難しさと可能性に思いを巡らせる。

以下、感想です。




ドキュメンタリーが好きとか言っておきながら、想田監督の「選挙」を観るまで「観察映画」というスタイルを知らなかったんですよ。なにせ「ゆきゆきて神軍」みたいなのがドキュメンタリーだと思ってましたから。だから恥ずかしながら当然「観察映画の巨匠」フレデリック・ワイズマンも知りませんでした...。
観察映画って観た方は体感してると思いますが、なにしろスゴく頭を使うんですよね。ぼーっと観てられない。何の説明もなしに突然「その世界」に引き込まれる。音楽やナレーションといったおかずが一切無く映像だけで自分で考えなければならない。要は映画観ながら「自分の先入観」と闘わなきゃいけないんですよ。これはめんどくさい!でもその闘いはハマればクセになるほど面白い!これは多分観客も作り手も同じなんでしょうね。


「選挙」はたまたま観て舞台がモロに自分の住んでる隣町の出来事だったので、ぐいぐいと引き込まれた覚えがあります。ふとした瞬間に出ちゃってる「人らしさ(愚痴とか文句とか)」が見事に捉えられていてスゴく面白かったのです。中でもラスト、選挙スタッフに囲まれた山さんと奥様の顔がダスティン・ホフマンの「卒業」のラストの顔とまるで同じだったのを観て、こういう手法でも面白いドキュメンタリーが撮れるんだ!と、観察映画の面白さを教えてもらいました。


二作目の「精神」も当然観て、いわゆる「モザイクの先の世界」も、実は「なんて事無い普通の世界」だったという事を気付かされて、やっぱり面白いなあ!と思ってたのですが、「精神」で一番好きだった部分はこの映画の「構成」だったんですよね。ストーリーなんて無いんだけど、構成は、最終的には「なんとなく良い話」でまとまる雰囲気...。でも、ラストシーンはやっぱり「ざわっ...」とする映像で終わるんですよ!「精神」という作品を只の良い話にしない。なぜならそんな簡単な話じゃないから。そのイヤらしさ(褒めてます)にすげえ感動したんですよ。この「構成」で「想田監督、信頼できる!」と認識したのでした。


で、今回の「Peace」ですが、ホント良く出来てるんですよ。なんかもう「全てが上手くいき過ぎている!」ってなもんで。もちろん観察映画ってくらいですからもの凄い量撮影してるんでしょうけど「たぶん監督は編集楽しかっただろうなあ...」と思いましたよ。
「猫」と「お義父さん」と「橋本さん」というそれぞれまったく違うエピソードがなんとなく、でも確実に作用してるんですよね。色んなところに散らばっている「日常の瞬間」がまさにピースとなってパズルのようにサクサクと収まっていく。なんでもない日のなにげない瞬間、でもそこには必ず「意味」があるんだって事がわかりました。「平和」をテーマにするって聴いて「日常」を撮ってここまで映像に意味を持たせる事ができるなんて...。やっぱ上手く行き過ぎですよ!(やっかみ)


あんまり上手くいき過ぎてて、なんかシャクなんで何点かニヤリとした部分を。

監督のお義父さまは障害者向けのタクシー業をほぼボランティアでやってらっしゃるんですが、ウエツキさんという障害者の方を街まで連れていくシーンで、何となく結婚話が出てウエツキさんが一言。
「カタワに嫁さんなんて来ないよ。」みたいな事を言うんですよ。その時、カメラが突然ウエツキさんにグッと寄るんですよね。「あー!今から面白い事言うかも!」って監督が思って、スケベ心でグッと寄ったのかと思いました。(※これは監督の著書で「『カタワ』という言葉にヒドく動揺してぶれた」と書いてました。)
もう一点。ラストの方で橋本さん宅から監督のお義母さまが駐車場から車を出すシーン。この直前に「とあるポスターのワンカット」が挿入されてるんですよ。あれは挿れるだけ野暮じゃねえか、と。海外の人には必要だけどなんかあのワンカットだけでスゴく映画が小さくなってしまった気がしたのです。あそこだけ監督が言いたい「意味」がはっきりとわかっちゃうカットなんですもの。駐車場から車を出すシーンのラジオを聴いちゃうと特に。


でも、これを観るとホントに「一期一会」って言葉が実感できるのですよ。特に橋本さんのエピソード。橋本さん宅で、ヘルパーでもある監督のお義母さまが料理を作ってて、監督は橋本さんをただ撮ってただけなんですが、何の脈絡もなく突然橋本さんが体験した「戦争」について語りだします。
いや。私見ですが「戦争について」の部分は完全に謎だけど、「語りだす」って部分は映画の端々に伏線としてあったかもしれません。橋本さんはご高齢でありながら凛としていて、人に対する心遣いがもの凄く出来る方なんですよ。橋本さん宅で監督が撮っている時、何もないのはなんか監督に申し訳ないっていう気持ちが橋本さんにあったのかもしれません。いずれにせよ、監督と橋本さんが出会ってなければあのシーンはこの世になかった訳で、それが映っているというだけでも奇跡で、ああいう瞬間が描けるから僕はドキュメンタリーが好きなんだなあと改めて思いました。


冒頭にも書きましたがこの作品は常にどこかで公開されてるような気がします。機会があれば是非観に行く事をオススメしますよ!まあ、監督との「勝負」みたいなもんです。そんな不思議な映画。





【おまけ】
監督が「Peace」の公開に併せて書かれた「なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか」。この本も非常に面白かったです。不思議なもんで監督の考えはもの凄く納得できるんだけど、その考えに対するアプローチの仕方が違うんですよ。監督は観察映画としてのドキュメンタリー。一方ボクの好みは暴力装置としてのドキュメンタリー。「まず答えやテーマ在りきのドキュメンタリーがダメ」ってのは一緒なんですけどね。

で、この本は図らずも「暴力装置としてのドキュメンタリー」を収めてました。
「Peace」の作品が生まれた背景には「牛窓ばあちゃんの最期を撮る」という企画があったそうで。
監督の奥様のおばあさまを題材に作品を撮ろうとしたところ、親戚から猛反対を受けてしまう。「生きる、死ぬ」を考える上でもの凄く良い題材なのだが理解が得られない...。
このエピソード自体が既に見事な「ドキュメンタリー」だったんですよ!想田監督の「観察映画ではないドキュメンタリー」が読めるのでこちらもオススメです。

なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか (講談社現代新書)

なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか (講談社現代新書)